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2.歴史的な資源の発掘 | |
【オンリーワン談義塾】 我が町の普請文化を語る 語り部 牧野真珠男 (2007/12) ◆テーマ2 町の歴史的な資源を発掘しよう… オンリーワン的な発想を基本に、人が区分毎に集まる仕掛の創出を研究します。この展開には先人が残してくれた『結いと絆の文化』を理解する事からスタートしなければなりません。 発掘bP ある墓地で静かに眠る俊狗〈通信犬〉 都城には南九州でも珍しい犬の供養石塔がある。これまでには郷土史研究家の発表もないが、庶民が容易に墓を建立することが出来なかった江戸時代に、なぜ犬の供養墓が存在しているのか不思議である。 この犬は殿様の愛犬だったと推察されるが、それにしても、殿様に墓まで建立してもらい供養されたこの犬は、過去に相当の大きな功績を残した『俊狗』(しゅんく)に違いない。 墓塔の石質は砂岩で形態は舟形光背。塔身は77センチ、最大幅28・5センチ、厚さ18センチで、塔身の下には高15センチ、径33・5センチの蓮台がついており、庶民以上の立派な墓である。 塔身の正面に『通信俊狗之封塔』(つうしんしゅんくのほうとう)、右側面に『享保壬寅十月二十四日』と刻まれているが、その年代は壬寅の干支から判断すれば、一七二二年にあたる。 なお、塔身の正面に刻まれている『通信俊狗之封塔』文字の、俊狗(しゅんく)は、中国では兎と犬を意味するらしいが、ここでは優れた犬の意と考えられる。また封(ほう)塔の意味は、冢(つか)を示している。 犬の墓に関する記録としては、元市文化財専門員の故重永卓爾氏(鹿児島出身)が、島津本家譜代の家来墓所に「犬の墓」があり、その史料が残っていると生前に説明してくれた事がある。 重永氏によるとその犬の名はタローで、幕末の頃に頴娃(揖宿郡=指宿)から鹿児島まで重要書類を運ぶ通信犬の役目をしており、殿様より赤絵の皿を拝領したとの記録があると言う。 そこで都城の俊狗の石塔も、通信犬の墓塔と推測される。重永氏は島津藩の犬の飼育愛玩制限令の古書を引用して、島津藩は犬を飼うことに厳しい制限をしていたと説明した。 また、江戸時代前期に島津本藩から都城島津領主の十五代久直に、犬は拾疋(十匹)より上は停止すべきことの布達があり、犬の飼育数まで制限していたと言う。 江戸後期には『御領犬の外、大犬、中犬は飼い置かざる様に‥‥』とあり、庶民が犬を飼うことに厳しく制限をしている。また『雑犬多く見え候に付き、捕方に申し渡し候』とあり当時の野犬の増加が伺われる。 また島津藩の牧場の役に『犬打番』がある。これは子馬などを襲う野犬対策と考えられる。江戸後期の記録には、『頃日(けいじつ)犬など盗み候儀は…』とあり、犬を盗むことについても厳しく戒めていた。 ともかく、旧藩時代の犬は上級社会の占有物であって、庶民に対し犬は穀潰(ごくつぶし)として飼養愛玩を許さなかったといえる。その背景には、当事者達の知恵がうかがわれる。 たとえば、犬を飼うな、殖やすな盗むな、野犬を取り締まれ。飼うなら小型犬を…との布達は、通信犬が無事に目的地に到着する環境保護策だったのである。 言うまでもなく、当時の通信犬は鹿児島の島津本家と都城分家や高城などの直轄地に、軍事作戦的な機密文書や私的な機密文書も運んでいたに違いないから通信犬の無事は至上命令であった。 【メモ】通信俊狗之封塔(つうしんしゅんくのほうとう)。狗(く=犬)。壬寅(みずのえのとら)。冢(ちょう=塚)。拾疋(じっぴき=十匹)。停止(ちょうじ)。頃日(けいじつ=この頃の意)。〈文責:牧野真珠男〉 |